Twitter上のフィギュアスケート好きな有志一同が立ち上げたブログです。
ロシアのブロガーMikhail Lopatin氏の記事を日本語訳して公開する場所として開設しました。
ちゃんと執筆者の了承を得ています。
ブログのタイトル「Cantilenae Amoenae」(カンティレーナエ・アモエナエ)は
ラテン語で「快美な歌声」といった意味です。
詳細は「事の始まり」という記事をご覧下さい。
なお、コメントは承認制です。
諸々の事情により返信は殆どできないと思いますが、それでも良ければ是非コメントしてください。
また、当ブログはリンクフリーですが無断転載は禁止です。どうか宜しくお願いします。

宇野昌磨の「This Town」(Mikhail Lopatin 氏による英文記事の日本語訳)

宇野昌磨の「This Town」

 

原著者:Mikhail Lopatin

原著者によるロシア語と英語の記事はこちら
(上半分がロシア語原文、下半分が英語訳)

原著者による英語の記事はこちら

 

「This Town」を選ぶ理由

 

「記録よりも心に残る演技をすることが最大の目標です」かつて宇野昌磨はそう述べていました。そしてその言葉通りの目標に向かって着々と歩を進めています。このスケーターはこれまでに数々の優れたプログラムを演じ、その中で見せた音楽性、表現力、スケーティング技術、腕から肘、手にかけての仕草や身体のしなやかな動き、そのことごとくが観る者の心に深い感銘を与えてきました。取り分けここ2年間のエキシビションのプログラムは、その品格といい、優れた叙情性といい、彼の本質が見事に流露しており、さながら彼自身の声で語りかけられ、その本来の姿を目の当たりにしたかのように感じさせるものがあります。宇野昌磨という人は、こうしたエキシビションのプログラムにおいてこそその本領を発揮し、自分の本来の姿を自分のやり方で表現することができるスケーターなのです。
それでは競技用のプログラムは全く「昌磨らしさ」に欠けているのかといえば、無論そのようなことはありません。しかし競技では高度な技術を明確に示すことが求められ、それと芸術的な自己表現との間でぎりぎりの均衡を保つ必要があります。それは均衡と言うよりも、ある意味では妥協と言えるかもしれません。いずれにしろエキシビションのプログラムで見られるような叙情的な表現を盛り込むことは極めて困難と思われます。試合で多くの得点を獲て表彰台に登るためには、難易度の高いジャンプを可能な限り後半に跳び、スピンやステップシークエンス等の要素でレベル4を獲得しなければなりません。
その一方でエキシビションでは、スケーターは何をしようと自由です。好きなやり方で表現し、好きなように跳び、好きなようにスピンをすることができます。自分の望み通りに、あるいは自分が使う曲に合わせ、望むだけ回転し、ポジションを変え、自分が選んだ楽曲の中に存分に身を浸すことができるのです。それ故にこそ昌磨のエキシビションは、類い希な、忘れ難いプログラムとなるのではないでしょうか。つまり、その根底を彼の個性が支えている以上、これらのプログラムは彼が創り上げた彼自身の作品に他ならないのですから。

 

昌磨のプログラムには度々感銘を受けてきましたが、中でも「This Town」は私にとって格別に忘れ難く、愛して止まない作品です。忘れ難いというよりも、恐らく私はこのプログラムを生涯忘れることができないでしょう。「This Town」はデヴィッド・ウィルソンによる振り付けのエキシビション・プログラムであり、2017年の世界選手権と国別対抗戦、2018年のスケート・カナダと四大陸選手権で演じられました。
以下の分析において、このプログラムの振り付けと音楽、そしてその2つが混ざり合うことにより、類い希な、実に「昌磨らしい」プログラムとなっていることについて自分なりの解釈を述べ、更にそれを通してスケーターとしての宇野昌磨と、そのスケーティングが持つ価値について自身なりの解釈を述べたいと思います。これこそが私の心に触れた、私にとっての宇野昌磨なのです。

 

動画:2018年四大陸選手権での「This Town」



「始めに言葉ありき」

 

このプログラムのスタイルや形態、身振りによる言葉の表現の根底にはナイル・ホーランの歌詞があります。このラヴ・ソングには重層的な含みや微かな「幻」のようなニュアンスが巧妙に使われています。はっきりと表に出ることのない想い、決して語られることのない言葉、殆ど消え入りそうでいて「空気の中から出て行こうとしない」(still stuck in the air)香り、言わば一見消え去ったようでまだ残っているようなあらゆるものが歌詞の中に潜んでいます。これは終わってしまった恋へと別れを告げる歌には違いありませんが、同時にもう一度やり直したいという願望と未練とが今なお心の隅に残っていることを吐露する歌でもあるのです。

 

そしてこの歌詞の特徴がそのままデヴィッド・ウィルソンの振り付けのスタイルを形作っています。それが中核となって身体の動きや、腕や手のポジションによる繊細にして豊かな表現を生み出しているのです。通例、強く率直な感覚や感情については顔の表情で表現されることが多いものですが、このプログラムの振り付けではそうした表現は鳴りを潜めています。演技の初めから終わりまで、昌磨の表情は物思いに沈むかのように静謐で、半ば無表情にすら見える程です。それに代わってこの曲の構成と主意を表現しているのは、このスケーターの持ち味であるところのしなやかな動作やポーズであり、そのレパートリーの中でも叙情的な傑作として名高い「ラヴェンダーの咲く庭で」とよく似たスタイルのプログラムと言えるでしょう。

 

宇野昌磨「ラヴェンダーの咲く庭で」と「This Town」

このプログラムでは、昌磨は4回転もトリプルアクセルも跳ばず、トリプルループトリプルサルコウダブルアクセル等の比較的簡単なジャンプを使用しています。そうした選択の背後にある意図も又、既に述べたことと同様です。勿論、ジャンプも豊かで力強い表現をもたらす1つの要素ですから、高度なジャンプを跳べばその分プログラムの表現力が増すことになります。他のプログラムであれば、例えば最高潮を迎えるところで4回転トゥループが必要になるかもしれませんが、そうしたジャンプは「静謐」で微妙なニュアンスのあるプログラムでは過剰に見えることでしょう。
「This Town」の振り付けでは、このプログラムの「穏やかな」スタイルに溶け込むような形でジャンプが挿入されています。いずれも特定の言葉やフレーズを明確にしたり強調したりすることはなく、プログラムの中で目立つわけでもなく、言わば他の振り付けの要素と結び付いているように見えます。言い換えれば、ジャンプによる表現も同様に「トーンダウン」しているのです。このプログラムの中ではジャンプが何の役割も担っていないというわけではありません。見る者が競技用のプログラムに通常求めるようなものとは、いささか違う役割を担っているのです。

 

形態

 

このプログラムでの昌磨の動き方を理解するには、この曲の歌詞に耳を傾ける必要があります。デヴィッド・ウィルソンはこのプログラムにおいて、この曲の構成にぴったり合う振り付けをしました。時には合わせるどころか、殆ど一体化しているようにすら見えます。
ここで構成について強調しておきたいのは、曲中の同じところで振り付けの要素(つまり同じ仕草とポジション)が繰り返されることで「This Town」の歌詞のあらゆる部分が細部に至るまで表現されているということです。この点についてはトリプルループダブルアクセルの2つのジャンプが重要な役割を演じており、曲の特定のセクションが終わるところで使用されています。最初の詩節の終わりの「so far from the stars」(あまりにも遠すぎる、あの空の星々は)でループ、

 

「everything comes back to you」(何もかも帰り着く、最後は君のところへと)というリフレインの終わりはアクセルです。

 

又、歌詞の終わりではなく旋律の終わりに、もう1つのジャンプであるトリプルサルコウが同じように使用されています。

 

つまりジャンプは曲の「構成の印」であり、歌詞のある部分と別の部分、ある旋律と別の旋律とを分ける役割を果たしているのです。

 

しかしながら、この曲の重要な区切れに「帰り着く」のはジャンプだけではありません。ある特定の仕草も何度か繰り返されています。例えば、先程引き合いに出したリフレインの最後の「everything comes back to you」は、その歌詞自体が「繰り返し」と「戻る」ことを意味していますが、最後の1行を除くすべてのリフレインにおいて昌磨の手の仕草によって明確に表現されています。その手は明らかに、この曲の見えざる「君」に、歌詞の中の去って行った最愛の人に向かって伸ばされているのです(この仕草は全部で3回繰り返されますが、それを次の動画にまとめました)。

 

又、この最後の仕草には、形式と意味合いとを示す要素が同居しています。繰り返される手の仕草は、曲の形式的な区切り部分の繰り返しとリフレインの最後の行の繰り返しを象徴しつつも、同時にこの行に込められた痛切な感情を表現しています。結局はすべてが、昌磨が手を伸ばす「君」へと帰ってゆくのです。

 

そして、この曲の目立つ部分から更に細かい部分に注目すれば、同様にこの振り付けが曲全体の構成にどのように組み込まれているのかが分かります。あるいは、この振り付けが詩節から詩節ではなく行から行へ(殆ど言葉から言葉へ)と、どのように続いてゆくのかが分かるでしょう。例えば、最初の詩節の前半は以下の3行から成ります。

 

「Waking up to kiss you and nobody's there. (目覚めて君にキスしようとすると、でもそこには誰もいない)//

 

The smell of your perfume still stuck in the air, (その君の香水の香りは、空気の中から出て行こうとしない)//

 

It's hard. (もう勘弁して欲しい。)」

 

この振り付けで、手の仕草と身体のポーズが「区切り」として働くことで、歌詞の各行がどのように終わるかにご注目ください。1行目では腕を広げて身体を傾け、

 

「Waking up to kiss you and nobody's there」(「This Town」より)

2行目では腕を上げ、

 

「The smell of your perfume still stuck in the air」(「This Town」より)

最後の3行目ではうなだれる動作をします。

 

「It's hard」(「This Town」より)

歌い手がその歌詞を「朗読」し、次の行に移る前に息継ぎをするように、動作のことごとくがこれらの最後の「区切り」へと、つまり一瞬動きを止め、この3行の振り付けの展開を「停止」させるポーズへと向かってゆきます。

 

主意

 

しかしここで、これらのポーズと仕草を更によく見てみましょう。最初の詩節は後半に3行(演技でそうなっているように、最後の1行が更に2つに分かれていたら4行になりますが)続いて終わるため、更に4つのポジションがあり、全部で7つの音楽的な振り付けの「区切り」で構成されています。これらのポジションの大部分は紛れもなく歌詞に登場するモティーフに関係していると思われます。こちらの動画でこの曲の最初の詩節全体をご確認ください。

 

例えば、この詩節の後半を見ると、明らかにカエスーラ(休止)で2つに分けられている行「so far / from the stars」(あまりにも遠すぎる / あの空の星々は)は2つの腕の仕草で表現されています。最初は少し上に向けて前に差し出され、あたかもこのスケーターの周囲に円を描くかのような動作です(「あまりにも遠すぎる」)。

 

「so far」(「This Town」より)

次に腕を上に向ける動作をします(「あの空の星々は」)。

 

「from the stars」(「This Town」より)

最初の区切り「waking up to kiss you and nobody's there」(目覚めて君にキスしようとすると、でもそこには誰もいない)では、「見えない」モティーフを相手に演じる動作が見られます。腕を広げる仕草(「目覚めて君にキスしようとすると」)と目を凝らす表情(顔の表情に感情が現れる数少ない瞬間)により、このポーズに意味が与えられています。

 

「waking up to kiss you and nobody's there」(「This Town」より)

2行目の「the smell of your perfume still stuck in the air」(その君の香水の香りは、空気の中から出て行こうとしない)では、両腕を素早く上に動かします。あたかも最愛の人の香水の香りを慌てて追い払おうとしているかのようです。

 

「the smell of your perfume still stuck in the air」(「This Town」より)

これまでに歌詞と振り付けの関係について述べたことについては、説得力があると思ってくださる方もいれば、そうでない方もいることでしょう。しかしながら、歌詞だけを基にして繰り返される幾つかの重要な仕草を見れば、これは明らかに歌詞に配慮した振り付けであり、可能な限りそれに合わせようと試みていることは明白です。これらのうちの1つ、「everything comes back to you」(何もかも帰り着く、最後は君のところへと)での手の仕草については既に論じました。こうした音楽と振り付けとが混ざり合う他の重要な要素には、「over and over」(何回も繰り返す)と「butterflies」(落ち着いていられない)における2つの仕草があります。

 

取り分け後者の、腕を「(蝶のように)ひらひら」させる動作は極めて顕著であり、ここにデヴィッド・ウィルソンの意図が現れていることは明白です。この言葉は曲の後半のリフレインの部分で2度繰り返され、いずれも全く同じように振り付けられています(その前のフレーズ「you still make me nervous when you walk in the room」(君が部屋に入って来ると今でも気が張り詰める)における手の使い方にもご注目ください)。

 

この「何回も繰り返」される仕草は様々ですが、すべてのバリエーションの背後にある包括的な着想は「回転する」ことです。円を描く動きを作り出すことで「繰り返し」という言葉のイメージを象徴しているのです(「何回も繰り返す」とは、つまり「いつも常に」ということを意味します)。

 

振り付けの中にこうした歌詞を表現する「仕草」の繰り返しが登場している以上、他の振り付けの「区切り」がそれぞれの歌詞の一部と意味の上で関係していることは、もはや疑う余地がないでしょう。当然ながら、このセクションの最初で論じたことも含めて、このように考えざるを得ません。

 

全体的に見ると、振付師が最終的に生み出そうとしているのは、このプログラムでの昌磨の動作と滑る曲の歌詞との密接な相関関係であり、ある意味「現実的」に、殆ど「写実的」とすら言える程に、このスケーターのポジションと動作の中に言葉を描き出すことなのではないでしょうか。こうした振り付けと音楽(歌詞)との関係は、単に形式的であったり、何らかの意味を持っていたり、時には明らかに写実的(例えば「butterflies」のように)であったり、非常に「象徴的」であったりします。そのため、このようなポーズや仕草の入れ替わりが単調になることはなく、かと言って過剰に「描写的」になることもありません。
そうなるどころか、この振り付けにはこの曲の形態と主意に対する振付師の配慮と願いとを見て取ることができます。デヴィッド・ウィルソンは身振りによる言語表現によってこの曲の形態と主意の両方を再現し、自身が(もしかしたら昌磨も)重視しているモティーフを強調して、様々な含みや歌詞に潜む「幻」を表現し、更に歌詞と音楽の中でヴァース、プレコーラス、コーラスが交互に「循環」し繰り返される曲の構造を明確にしようと努めているのです。

これこそはまさしく、深遠にして全てを内包する神秘的な音楽性と言うべきものであり、競技用のプログラムでは決して成し得ないものなのです。競技では、スケーターは単純にルールに従って技術的に求められるものを考慮しなければなりません。しかしエキシビションのプログラムに見られる音楽性こそが宇野昌磨の本領なのであり、見る者を感嘆せしむる類い希な才華なのです。

 

エピローグ

 

昌磨のレパートリーには、幾度も観たくなるような多くの感嘆すべきプログラムがあります。又、その他にも多くの競技会で大きなミスをせずにプログラムを演じ、その時の自分にできる最良のやり方で自己を表現してきたと言っても過言ではないでしょう。しかしながら、私自身の心を捉えて片時も放さないのはやはり「This Town」なのです。これ程にその振り付けが宇野昌磨その人の本質に入り込み、このスケーターの根源と、その芸術性と高度な技術を通じて観客に伝えるべきものとを巧みに表現しているプログラムはないと思えるからです。

 

ここで最初に引用した昌磨の言葉に戻りますが、これは紛れもなく「記録よりも心に残る」プログラムの1つです。実際、このプログラムの名前が競技の記録に残されることはありません。競技会では何ら得点を得ていないのですから。しかしある意味、このプログラムがもたらすものは如何なる高い得点をも凌駕すると言えるかもしれません。何故なら、単なる「得点」や「記録」が人々にどれ程強い感銘を与えようとも、又どれ程高く評価されようとも、芸術の栄光というものは、そうしたものの及ぶべくもない遥か高みにあるのですから。

 

これが私の目に映り、五感で感じ取り、心に刻み込まれた宇野昌磨の本質です。私が慕い、感嘆し、幾度も観ずにはいられない、私にとっての宇野昌磨。私の想いが常に帰り着くところにいる人なのです。

 

Over and over the only truth

 

Everything comes back to you」

 

何回も繰り返す、分かり切ったことだけを

 

何もかも帰り着く、最後は君のところへと)

 

「This Town」の宇野昌磨 Shoma Uno

 

日本語訳立案/翻訳/校閲Twitter上の宇野昌磨ファン有志一同
※ Mikhail Lopatin 氏の許可を得て翻訳しました。

 

註釈

(1)日本語の記事では普通「宇野選手」という風に現役の選手には「〜選手」と付けますが、この記事の場合は「宇野選手」という硬い表現がどうにも似合わないので敢えて付けませんでした。

(2)「This Town」の歌詞の日本語訳はインターネット上で複数見付けることができましたが、余所のサイト様から勝手に拝借すると法的に問題になるおそれがありますので、これも改めて翻訳しました。昌磨の動作に合わせて翻訳し、一応、脚韻も踏んであります(最後のリフレインは頭韻も脚韻も両方)。ただし、語呂を合わせるために原文にない言葉も少し加えていますのでご注意ください。

(3)ある読者様からの情報によりますと、原文には書かれていませんが、「This Town」は2017年の四大陸選手権冬季アジア大会でも演じられていたそうです。情報をご提供頂き有り難うございました。

 

翻訳担当者の後書き

Mikhail氏の英文は詩や音楽の専門用語が多く、普段それなりに英文を読み慣れている人間にとってもかなりハードルの高い内容でした。そのまま日本語にするのが困難でかなり意訳せざるを得なかった部分もあるものの、何人かの昌磨ファンが力を合わせて取り組んだ結果、どうにか日本語訳を完成させて公開にこぎ着けることができました。Mikhail氏とやりとりしたり、感想をリプしたり、「いいね」したりしてくださった皆様、そして仮訳の確認、ご意見ご感想、誤訳の発見、アイデアのご提供などで貢献してくださった皆様、本当に有り難うございました。日本の昌磨ファンの皆さんに少しでも楽しんで頂けたら嬉しいです。