Twitter上のフィギュアスケート好きな有志一同が立ち上げたブログです。
ロシアのブロガーMikhail Lopatin氏の記事を日本語訳して公開する場所として開設しました。
ちゃんと執筆者の了承を得ています。
ブログのタイトル「Cantilenae Amoenae」(カンティレーナエ・アモエナエ)は
ラテン語で「快美な歌声」といった意味です。
詳細は「事の始まり」という記事をご覧下さい。
なお、コメントは承認制です。
諸々の事情により返信は殆どできないと思いますが、それでも良ければ是非コメントしてください。
また、当ブログはリンクフリーですが無断転載は禁止です。どうか宜しくお願いします。

スピンと音楽の調和 — 羽生結弦と宇野昌磨の演技に見られる秘訣(Mikhail Lopatin 氏による英文記事の日本語訳)

スピンと音楽の調和 — 羽生結弦宇野昌磨の演技に見られる秘訣

 

原著者:Mikhail Lopatin

原著者によるロシア語と英語の記事はこちら
(上半分がロシア語原文、下半分が英語訳)

原著者による英語の記事はこちら

 

この記事では、主に羽生結弦宇野昌磨の近年のプログラムにおける振り付けと音楽との関係について些かの考えを述べようと思います。そのプログラムに内在する音楽性については広く知られていますが、この音楽性を構成する要素について、きちんと詳細に分析しようという試みは依然としてごく僅かです。例えば、ショパンの《バラード第1番》(羽生結弦)やラフマニノフの《悲歌 変ホ短調》(パトリック・チャン)、《ラヴェンダーの咲く庭で》(宇野昌磨)のようなプログラムを見ると、既存の曲に合わせて振り付けをしたのではなく、それらのプログラムで使用するために曲が作られたのではないかと思えてくる程です。そうした「自然な」動きと流れの裏側には、果たしてどのような秘密が隠されているのでしょうか。

 

そうした秘密の一端を知るには、スピンを詳しく調べてみるのが良策ではないかと思います。このエレメントは回転数とポジションがかなり厳格に決められている上、ショートとフリーのどちらでも3回繰り返されるため、各プログラム内の相当な部分を占める事になります。
例えば、スケーターがエレメント全体で1種類の動きしかしないと想像してみてください。それがスピンであれば非常に単調になる事でしょう。それ故にスピンをプログラムと伴奏に組み込むのは、他のエレメントに比べて難しい仕事になるに違いありません。ステップならばスピンよりも多様で様々な方向へ動く事が出来ますし、ジャンプならば短い時間でダイナミックな表現が出来ますが、スピンの場合そうは行きません。
実際、近年のプログラムを複数見てみれば、その難しさがはっきりと分かります。音楽の切れ目を通り過ぎて回転してしまったり、楽曲中のフレーズやハーモニーの構成に合わなかったりする事は珍しくありません。時にはスピンの途中で音楽が止まってしまうなど、見苦しい事になる場合もあります。そのため、プログラム中の1つのスピンを音楽の構成に合わせるだけでもある程度の努力と創造力が必要です。ましてや3つのスピン全てを合わせるとなれば尚更でしょう。
しかしながらスピンを音楽と同調させる事は、最初に述べた内在する音楽性と「自然さ」を生み出す事に大きく貢献するのです。それでは、幾つかの例を見て行きましょう。

 

スピンを組み入れる際に最も単純で効果的な方法は、曲の変わり目に回転を始めるやり方です。そこで始まる曲がスケーターが作り出すスピンの動きを彷彿とさせるものであれば一層素晴らしいものになります。次に2つの実例を挙げましょう。パトリック・チャンショートプログラムラフマニノフ《悲歌 変ホ短調》でのチェンジフットキャメルスピン(2014年ソチ五輪)と、宇野昌磨が2010〜2011年に使用したプログラム《ツィガーヌ》でのチェンジフットシットスピン(2010年全日本ジュニア選手権)です。

 

 

 

何れの場合も、印象的な曲の変化とスピンの動き自体がそこから始まる旋律の形にぴったりと合っているため、非常に優れたスピンに仕上がっています。
例えば、宇野昌磨の《ツィガーヌ》では、スピンの動きが完全にピアノ演奏のトリルと同調しています。やがてこのトリルは1オクターブ下がりますが、この移調と同時にスピンの軸足とポジションが変化するのです。
一方、パトリック・チャンの《悲歌》では、旋律の進行が更に複雑で凝ったものになっています。しかしこのスピンの伴奏の旋律は、絶えず行きつ戻りつしながらも、スピンの動きに良く調和する「円形」の旋律になっています。
これら2つの例を見れば、スピンを「旋律に合う」ように見せるための2つの重要な条件をご理解頂ける事でしょう。まず1つには、宇野昌磨の例に見られるように、スピンのリズムと音楽のリズムとが完全に一致している事。2つには、その曲調自体が「円」を描くように循環するものであれば、スピンの動きと一層良く調和するという事です。加えて、スケーターがスピンをしながら上下にポジションを変えたり、或いは腕や手を使って様々な曲調を表現したりする事で、旋律の調子とアクセントを明確に強調する事が出来ます。つまり、一層「自然」で「流れるような」スピンを生み出す(観客の目にそう見えるようにする)には、リズムと旋律が同じくらい重要になるという事です。

 

リズム

 

例えば、羽生結弦が2014年ソチ五輪で演じたフリーのプログラム《ロミオとジュリエット》の最初のコンビネーションスピン、フライングチェンジフットコンビネーションスピンを見てみましょう。

 

 

まず第一に、楽曲が鮮やかに変化するため、申し分の無い調子でスピンが始まります。スピン全体の伴奏となるのは荘厳な8小節のコラールです。旋律の面から考えると、この楽曲にはスケーターのスピンの動きと共通するものが何一つありません。しかしリズムの面では、楽曲とスピンの間に密接な関係が見られます。8小節のコラールは8つの異なるハーモニーで構成され、それらが互いに規則正しく入れ替わります。当然ながらこのスピンの基本ポジションは通常よりも短く、キャメルスピン(1)からドーナツスピン(3)、次いでシットスピン(5)、そしてビールマンスピン(7)へと変化して行きます。しかしながら、スケーターがそうしたスピンのヴァリエーションを作り出す事で最終的にはコラールの全ての小節を「埋め」(下図参照)、更に楽曲のハーモニーの変化にぴったり合うポジション(或いはその組み替え)の変化を可能にしたのです。

 

f:id:Georgius:20180920082346j:plain

 

音楽性と振り付けの同調という観点から見ると、宇野昌磨の《ラヴェンダーの咲く庭で》は、そのレパートリーの中でも取り分け優美で巧妙なプログラムの1つに数えられるでしょう。かつてタチアナ・タラソワが述べたように、その振り付けと伴奏とがあまりにも深く結び付いているように見えるため、このプログラムで使用するために特別に作られた曲なのではないかと思えてくる程です。その比較的単純で具体的な例の1つが、次に示す宇野昌磨のチェンジフットシットスピンです。

 

 

このスピンでは、2つのポジションが2つの良く似たフレーズと上手く調和しており、ポジションを変える際は2つのフレーズの移行部にぴったり合わせて軸足を替えています。又、このスピンでは、旋律の進行方向とスケーターの動きとが結び付いているのかもしれません。それというのも、最初の上昇で立ち上がって足を替え、下降すると同時に2番目のポジションに移っているからです。
興味深い事に、2017〜2018年の《冬》でも、殆ど同じ方法でビバルディの楽曲にシットスピンを組み込んでいます。

 

 

この場合もやはり、非常に良く似た2つのフレーズに合わせたスピンとなっており、どちらのフレーズもよく調和した短い音符の連続で構成されています。これら2つのフレーズは2つのポジションで強調され、スピンと旋律とが同時に変化するようになっています。更に興味深い事に、振り付け師はこのスピンの部分でビバルディの楽曲をアレンジしています。最初のフレーズにもう1つ反復を加え、1拍子増やしているのです。その1拍子分の時間により、スケーターは最初のポジションで全ての回転を悠々とこなした上で、音楽とぴったり合わせて軸足を替える事が出来るようになっています。

 

f:id:Georgius:20180920082355j:plain

 

こうした例を見れば、1つのスピンを振り付け、更に目にも耳にも流れるような自然な印象に仕上げるためにはどれ程の苦労と思案とが必要であるかをご理解頂けるのではないでしょうか。

 

それでは、この章の最後の例として、羽生結弦の《バラード第1番》を取り上げましょう。

 

 

このプログラムのキャメルスピンは、ショパンの音楽のあらゆるハーモニーの変化と音のアクセントを反映するように振り付けられています。

 

f:id:Georgius:20180920082402j:plain

 

f:id:Georgius:20180920082409j:plain

 

ここでもやはり、スケーターは腕の動きで音楽を細部に至るまで表現しています。取り分け、スピンの最後(上図の5番目のポジション)では、左腕を上げる事で旋律の最高音を強調しています。まさに珠玉の表現と言う他ありません。

 

旋律の進行とスピン

 

振り付けが持つ可能性は、単純にスピンの動きと旋律の進行がリズミカルに調和している事だけに留まりません。この例をご覧になれば、その事をはっきりとご理解頂けるのではないでしょうか。このスピンでは、旋律の進行方向とそのアクセントに腕とスピンのポジションを合わせ、それによって旋律の持つ力を巧みに表現する事に成功しています。

 

宇野昌磨の2014〜2015年のプログラム《クロイツェルソナタ》では、ベートーベンの第1楽章の導入部へ向けて最初のスピン(チェンジフットキャメルスピン)が演じられています。

 

 

テンポがゆったりとしていてハーモニーの変化がやや変則的なため、このスピンの全てのポジションを楽曲に組み入れるのは非常に困難です。そこでこのスピンでは、リズムの調和を生み出すよりもバイオリンパートの旋律の進行を明確にする事に焦点が当てられています。

 

f:id:Georgius:20180920082421j:plain

 

f:id:Georgius:20180920082428j:plain

 

まず、1番目のポジションが最初の2音の際のジャンプから始まります。それ以降はバイオリンの夫々の音を振り付けで表現しています。1番目の音ではキャメルスピン(1)、2番目ではレイオーバースピン(2)、3番目にはハーフビールマンスピンに至り(3)、最後に旋律の終わりの終止形のモティーフでスピンが終わります。ただし、ジャンプの構成はシーズン中に多少変わるため、このプログラムにおけるこのスピンのポジションも絶えず変更される事になります。しかしながら、ここで分析したこの1番目のポジションが、旋律と振り付けとの関係性という観点から見て最も成功したものであるという点は変わらないでしょう。

 

既に述べたように、羽生結弦のスピンには、腕使いで単音と旋律のアクセントを強調するという特徴が見られます。その好例として、このスケーターのプログラム《SEIMEI》の最初のコンビネーションスピンをご覧頂きましょう。

 

 

ここで取り分け感銘を受けたのは、「ドーナツ」のポジションで腕を使い、フレーズの終わりをはっきりと表現した事です。スピンのポジション自体は次のフレーズと重なっていますが、それ故にこそ、腕の仕草で楽曲のハーモニーの構成とは異なる印象を描き出したのです。この1つのポジションの中にこのような強い視覚的なアクセントを作り出し、それによってフレーズの終わりを巧みに表現しています。

 

《バラード第1番》の最後のコンビネーションスピンも同様です。楽曲が最後のコードに至る前にスピンが始まるため、初めはそのスピンの開始と楽曲の内容とが、僅かにずれているように見えるかもしれません。

 

 

しかしこのプログラムでも、シンプルでありながら優美なやり方でその問題が見事に解決されています。最初の基本的なポジションのスピンの間に決定的なハーモニーの変化があるのですが、スケーターがその変化にぴったり合わせて右の拳を強く握り締めるのです。これによって旋律の強いアクセントが視覚的に強調されるため、スピンの始まりで見られた身振りと楽曲との不調和が打ち消され、流れるようなスピンに見せる事に成功しています。

 

最後の例として、宇野昌磨の2016〜2017年のプログラム《ロコへのバラード》のコンビネーションスピンを取り上げましょう。

 

 

この歌の最後の部分はリズムの面でも旋律の面でもかなり変則的なため、すべてのポジションを伴奏と調和させるのは極めて困難です。恐らくこうしたスピンでより重要になるのは、曲の終わりに向けて加速する事でしょう。このスケーターが最後のアップライトのポジションでスピンを加速すると、殆どの場合、伴奏と演技とが見事に一体化します。特にこの2017年の四大陸選手権におけるバージョンは、幾つもの重要な旋律のアクセントを強調するために、このスケーターがどのような腕使いをしているのかを知るのにぴったりの例と思われます。これは《ロコへのバラード》の最後のコンビネーションスピンの中では(2016年のグランプリファイナルの演技などと比べると)技術的な意味では最高の演技ではないかもしれませんが、音楽性という観点から見ると他よりも格段に優れています。このスピンがあるが故にこのプログラムのフィナーレが非常に印象的なものとなり、宇野昌磨の経歴において極めて重要な役割を演じる事となりました。このプログラムにより順位を上げ、多くのメダルを勝ち取ったという事だけではありません。このスケーターの楽曲へのアプローチや、楽曲を聴いて演技と調和させる方法、更にその音楽的な資質がどのように鍛えられたのかを知る上で欠かせないプログラムと言えるでしょう。

 

上記で分析した例は、演技全体の中のごく些細な、重要性の低い部分に思えるかもしれません。しかしこれらの例を見る事で、フィギュアスケートにおいて、この独特なエレメント1つの振り付けに大変な苦労と思案とが込められている事をご理解頂けるものと思います。そして、動きと楽曲とが同調しているエレメントを演じるためには、大変な努力と集中力とがスケーターに求められる事もお分かりでしょう。その努力はジャッジから十分に理解され、評価されるものと思われますが、それが全てというわけではありません。高く評価された場合でも、例えば難しいジャンプの入り方と同じくらい多くの点数をもたらす事はないでしょう。
競技会では音楽性で勝負する事は出来ませんが、しかし人間には心というものがあります。それ故に音楽性の追求は、極めて大きな到達点へとスケーターを導いてくれる筈です。プログラムに流れや滑らかさや自然なリズムをもたらして他とは一線を画すものと成さしめ、最初から最後まで観客の意識を惹き付けて、1つのスピンや1つのプログラムよりもずっと長い間心に残るような、忘れ難い印象を作り出す事が出来るようになるのではないでしょうか。

 

 

日本語訳立案/翻訳/校閲Twitter上のフィギュアスケートファン有志一同
※ Mikhail Lopatin 氏の許可を得て翻訳しました。

 

翻訳担当者の後書き

 

やっとMikhail氏の記事の日本語訳第2弾をお届けする事が出来ました。この記事は何故かロシア語版と英語版で少し内容が異なっているのですが、分かる範囲でロシア語版の方に合わせてみました。なお、今回は前回よりも短時間で仕上げざるを得なかったため、誤字脱字や誤訳が彼方此方に残っているかもしれません。何かお気付きの場合はこの記事にコメントするか、当ブログの管理人まで知らせて頂けると大変有り難いです。時間を見付けて検討/修正しますので、どうか宜しくお願い致します(早速ですが2018年9月20日17:45頃、パトリック・チャン選手のスピンの解説部分に大変な誤訳がある事が判明して大幅修正しました)。

 

管理人よりお知らせです。

事の始まり」の内容を若干変更し、追記しましたので宜しければご確認ください。

また、沢山のコメントを有り難うございます!管理人多忙のためご返信はできないかもしれませんが、有志により皆様のご感想をまとめてMikhail氏にお伝えする予定です。今後ともどうか宜しくお願い致します。

宇野昌磨の「This Town」(Mikhail Lopatin 氏による英文記事の日本語訳)

宇野昌磨の「This Town」

 

原著者:Mikhail Lopatin

原著者によるロシア語と英語の記事はこちら
(上半分がロシア語原文、下半分が英語訳)

原著者による英語の記事はこちら

 

「This Town」を選ぶ理由

 

「記録よりも心に残る演技をすることが最大の目標です」かつて宇野昌磨はそう述べていました。そしてその言葉通りの目標に向かって着々と歩を進めています。このスケーターはこれまでに数々の優れたプログラムを演じ、その中で見せた音楽性、表現力、スケーティング技術、腕から肘、手にかけての仕草や身体のしなやかな動き、そのことごとくが観る者の心に深い感銘を与えてきました。取り分けここ2年間のエキシビションのプログラムは、その品格といい、優れた叙情性といい、彼の本質が見事に流露しており、さながら彼自身の声で語りかけられ、その本来の姿を目の当たりにしたかのように感じさせるものがあります。宇野昌磨という人は、こうしたエキシビションのプログラムにおいてこそその本領を発揮し、自分の本来の姿を自分のやり方で表現することができるスケーターなのです。
それでは競技用のプログラムは全く「昌磨らしさ」に欠けているのかといえば、無論そのようなことはありません。しかし競技では高度な技術を明確に示すことが求められ、それと芸術的な自己表現との間でぎりぎりの均衡を保つ必要があります。それは均衡と言うよりも、ある意味では妥協と言えるかもしれません。いずれにしろエキシビションのプログラムで見られるような叙情的な表現を盛り込むことは極めて困難と思われます。試合で多くの得点を獲て表彰台に登るためには、難易度の高いジャンプを可能な限り後半に跳び、スピンやステップシークエンス等の要素でレベル4を獲得しなければなりません。
その一方でエキシビションでは、スケーターは何をしようと自由です。好きなやり方で表現し、好きなように跳び、好きなようにスピンをすることができます。自分の望み通りに、あるいは自分が使う曲に合わせ、望むだけ回転し、ポジションを変え、自分が選んだ楽曲の中に存分に身を浸すことができるのです。それ故にこそ昌磨のエキシビションは、類い希な、忘れ難いプログラムとなるのではないでしょうか。つまり、その根底を彼の個性が支えている以上、これらのプログラムは彼が創り上げた彼自身の作品に他ならないのですから。

 

昌磨のプログラムには度々感銘を受けてきましたが、中でも「This Town」は私にとって格別に忘れ難く、愛して止まない作品です。忘れ難いというよりも、恐らく私はこのプログラムを生涯忘れることができないでしょう。「This Town」はデヴィッド・ウィルソンによる振り付けのエキシビション・プログラムであり、2017年の世界選手権と国別対抗戦、2018年のスケート・カナダと四大陸選手権で演じられました。
以下の分析において、このプログラムの振り付けと音楽、そしてその2つが混ざり合うことにより、類い希な、実に「昌磨らしい」プログラムとなっていることについて自分なりの解釈を述べ、更にそれを通してスケーターとしての宇野昌磨と、そのスケーティングが持つ価値について自身なりの解釈を述べたいと思います。これこそが私の心に触れた、私にとっての宇野昌磨なのです。

 

動画:2018年四大陸選手権での「This Town」



「始めに言葉ありき」

 

このプログラムのスタイルや形態、身振りによる言葉の表現の根底にはナイル・ホーランの歌詞があります。このラヴ・ソングには重層的な含みや微かな「幻」のようなニュアンスが巧妙に使われています。はっきりと表に出ることのない想い、決して語られることのない言葉、殆ど消え入りそうでいて「空気の中から出て行こうとしない」(still stuck in the air)香り、言わば一見消え去ったようでまだ残っているようなあらゆるものが歌詞の中に潜んでいます。これは終わってしまった恋へと別れを告げる歌には違いありませんが、同時にもう一度やり直したいという願望と未練とが今なお心の隅に残っていることを吐露する歌でもあるのです。

 

そしてこの歌詞の特徴がそのままデヴィッド・ウィルソンの振り付けのスタイルを形作っています。それが中核となって身体の動きや、腕や手のポジションによる繊細にして豊かな表現を生み出しているのです。通例、強く率直な感覚や感情については顔の表情で表現されることが多いものですが、このプログラムの振り付けではそうした表現は鳴りを潜めています。演技の初めから終わりまで、昌磨の表情は物思いに沈むかのように静謐で、半ば無表情にすら見える程です。それに代わってこの曲の構成と主意を表現しているのは、このスケーターの持ち味であるところのしなやかな動作やポーズであり、そのレパートリーの中でも叙情的な傑作として名高い「ラヴェンダーの咲く庭で」とよく似たスタイルのプログラムと言えるでしょう。

 

宇野昌磨「ラヴェンダーの咲く庭で」と「This Town」

このプログラムでは、昌磨は4回転もトリプルアクセルも跳ばず、トリプルループトリプルサルコウダブルアクセル等の比較的簡単なジャンプを使用しています。そうした選択の背後にある意図も又、既に述べたことと同様です。勿論、ジャンプも豊かで力強い表現をもたらす1つの要素ですから、高度なジャンプを跳べばその分プログラムの表現力が増すことになります。他のプログラムであれば、例えば最高潮を迎えるところで4回転トゥループが必要になるかもしれませんが、そうしたジャンプは「静謐」で微妙なニュアンスのあるプログラムでは過剰に見えることでしょう。
「This Town」の振り付けでは、このプログラムの「穏やかな」スタイルに溶け込むような形でジャンプが挿入されています。いずれも特定の言葉やフレーズを明確にしたり強調したりすることはなく、プログラムの中で目立つわけでもなく、言わば他の振り付けの要素と結び付いているように見えます。言い換えれば、ジャンプによる表現も同様に「トーンダウン」しているのです。このプログラムの中ではジャンプが何の役割も担っていないというわけではありません。見る者が競技用のプログラムに通常求めるようなものとは、いささか違う役割を担っているのです。

 

形態

 

このプログラムでの昌磨の動き方を理解するには、この曲の歌詞に耳を傾ける必要があります。デヴィッド・ウィルソンはこのプログラムにおいて、この曲の構成にぴったり合う振り付けをしました。時には合わせるどころか、殆ど一体化しているようにすら見えます。
ここで構成について強調しておきたいのは、曲中の同じところで振り付けの要素(つまり同じ仕草とポジション)が繰り返されることで「This Town」の歌詞のあらゆる部分が細部に至るまで表現されているということです。この点についてはトリプルループダブルアクセルの2つのジャンプが重要な役割を演じており、曲の特定のセクションが終わるところで使用されています。最初の詩節の終わりの「so far from the stars」(あまりにも遠すぎる、あの空の星々は)でループ、

 

「everything comes back to you」(何もかも帰り着く、最後は君のところへと)というリフレインの終わりはアクセルです。

 

又、歌詞の終わりではなく旋律の終わりに、もう1つのジャンプであるトリプルサルコウが同じように使用されています。

 

つまりジャンプは曲の「構成の印」であり、歌詞のある部分と別の部分、ある旋律と別の旋律とを分ける役割を果たしているのです。

 

しかしながら、この曲の重要な区切れに「帰り着く」のはジャンプだけではありません。ある特定の仕草も何度か繰り返されています。例えば、先程引き合いに出したリフレインの最後の「everything comes back to you」は、その歌詞自体が「繰り返し」と「戻る」ことを意味していますが、最後の1行を除くすべてのリフレインにおいて昌磨の手の仕草によって明確に表現されています。その手は明らかに、この曲の見えざる「君」に、歌詞の中の去って行った最愛の人に向かって伸ばされているのです(この仕草は全部で3回繰り返されますが、それを次の動画にまとめました)。

 

又、この最後の仕草には、形式と意味合いとを示す要素が同居しています。繰り返される手の仕草は、曲の形式的な区切り部分の繰り返しとリフレインの最後の行の繰り返しを象徴しつつも、同時にこの行に込められた痛切な感情を表現しています。結局はすべてが、昌磨が手を伸ばす「君」へと帰ってゆくのです。

 

そして、この曲の目立つ部分から更に細かい部分に注目すれば、同様にこの振り付けが曲全体の構成にどのように組み込まれているのかが分かります。あるいは、この振り付けが詩節から詩節ではなく行から行へ(殆ど言葉から言葉へ)と、どのように続いてゆくのかが分かるでしょう。例えば、最初の詩節の前半は以下の3行から成ります。

 

「Waking up to kiss you and nobody's there. (目覚めて君にキスしようとすると、でもそこには誰もいない)//

 

The smell of your perfume still stuck in the air, (その君の香水の香りは、空気の中から出て行こうとしない)//

 

It's hard. (もう勘弁して欲しい。)」

 

この振り付けで、手の仕草と身体のポーズが「区切り」として働くことで、歌詞の各行がどのように終わるかにご注目ください。1行目では腕を広げて身体を傾け、

 

「Waking up to kiss you and nobody's there」(「This Town」より)

2行目では腕を上げ、

 

「The smell of your perfume still stuck in the air」(「This Town」より)

最後の3行目ではうなだれる動作をします。

 

「It's hard」(「This Town」より)

歌い手がその歌詞を「朗読」し、次の行に移る前に息継ぎをするように、動作のことごとくがこれらの最後の「区切り」へと、つまり一瞬動きを止め、この3行の振り付けの展開を「停止」させるポーズへと向かってゆきます。

 

主意

 

しかしここで、これらのポーズと仕草を更によく見てみましょう。最初の詩節は後半に3行(演技でそうなっているように、最後の1行が更に2つに分かれていたら4行になりますが)続いて終わるため、更に4つのポジションがあり、全部で7つの音楽的な振り付けの「区切り」で構成されています。これらのポジションの大部分は紛れもなく歌詞に登場するモティーフに関係していると思われます。こちらの動画でこの曲の最初の詩節全体をご確認ください。

 

例えば、この詩節の後半を見ると、明らかにカエスーラ(休止)で2つに分けられている行「so far / from the stars」(あまりにも遠すぎる / あの空の星々は)は2つの腕の仕草で表現されています。最初は少し上に向けて前に差し出され、あたかもこのスケーターの周囲に円を描くかのような動作です(「あまりにも遠すぎる」)。

 

「so far」(「This Town」より)

次に腕を上に向ける動作をします(「あの空の星々は」)。

 

「from the stars」(「This Town」より)

最初の区切り「waking up to kiss you and nobody's there」(目覚めて君にキスしようとすると、でもそこには誰もいない)では、「見えない」モティーフを相手に演じる動作が見られます。腕を広げる仕草(「目覚めて君にキスしようとすると」)と目を凝らす表情(顔の表情に感情が現れる数少ない瞬間)により、このポーズに意味が与えられています。

 

「waking up to kiss you and nobody's there」(「This Town」より)

2行目の「the smell of your perfume still stuck in the air」(その君の香水の香りは、空気の中から出て行こうとしない)では、両腕を素早く上に動かします。あたかも最愛の人の香水の香りを慌てて追い払おうとしているかのようです。

 

「the smell of your perfume still stuck in the air」(「This Town」より)

これまでに歌詞と振り付けの関係について述べたことについては、説得力があると思ってくださる方もいれば、そうでない方もいることでしょう。しかしながら、歌詞だけを基にして繰り返される幾つかの重要な仕草を見れば、これは明らかに歌詞に配慮した振り付けであり、可能な限りそれに合わせようと試みていることは明白です。これらのうちの1つ、「everything comes back to you」(何もかも帰り着く、最後は君のところへと)での手の仕草については既に論じました。こうした音楽と振り付けとが混ざり合う他の重要な要素には、「over and over」(何回も繰り返す)と「butterflies」(落ち着いていられない)における2つの仕草があります。

 

取り分け後者の、腕を「(蝶のように)ひらひら」させる動作は極めて顕著であり、ここにデヴィッド・ウィルソンの意図が現れていることは明白です。この言葉は曲の後半のリフレインの部分で2度繰り返され、いずれも全く同じように振り付けられています(その前のフレーズ「you still make me nervous when you walk in the room」(君が部屋に入って来ると今でも気が張り詰める)における手の使い方にもご注目ください)。

 

この「何回も繰り返」される仕草は様々ですが、すべてのバリエーションの背後にある包括的な着想は「回転する」ことです。円を描く動きを作り出すことで「繰り返し」という言葉のイメージを象徴しているのです(「何回も繰り返す」とは、つまり「いつも常に」ということを意味します)。

 

振り付けの中にこうした歌詞を表現する「仕草」の繰り返しが登場している以上、他の振り付けの「区切り」がそれぞれの歌詞の一部と意味の上で関係していることは、もはや疑う余地がないでしょう。当然ながら、このセクションの最初で論じたことも含めて、このように考えざるを得ません。

 

全体的に見ると、振付師が最終的に生み出そうとしているのは、このプログラムでの昌磨の動作と滑る曲の歌詞との密接な相関関係であり、ある意味「現実的」に、殆ど「写実的」とすら言える程に、このスケーターのポジションと動作の中に言葉を描き出すことなのではないでしょうか。こうした振り付けと音楽(歌詞)との関係は、単に形式的であったり、何らかの意味を持っていたり、時には明らかに写実的(例えば「butterflies」のように)であったり、非常に「象徴的」であったりします。そのため、このようなポーズや仕草の入れ替わりが単調になることはなく、かと言って過剰に「描写的」になることもありません。
そうなるどころか、この振り付けにはこの曲の形態と主意に対する振付師の配慮と願いとを見て取ることができます。デヴィッド・ウィルソンは身振りによる言語表現によってこの曲の形態と主意の両方を再現し、自身が(もしかしたら昌磨も)重視しているモティーフを強調して、様々な含みや歌詞に潜む「幻」を表現し、更に歌詞と音楽の中でヴァース、プレコーラス、コーラスが交互に「循環」し繰り返される曲の構造を明確にしようと努めているのです。

これこそはまさしく、深遠にして全てを内包する神秘的な音楽性と言うべきものであり、競技用のプログラムでは決して成し得ないものなのです。競技では、スケーターは単純にルールに従って技術的に求められるものを考慮しなければなりません。しかしエキシビションのプログラムに見られる音楽性こそが宇野昌磨の本領なのであり、見る者を感嘆せしむる類い希な才華なのです。

 

エピローグ

 

昌磨のレパートリーには、幾度も観たくなるような多くの感嘆すべきプログラムがあります。又、その他にも多くの競技会で大きなミスをせずにプログラムを演じ、その時の自分にできる最良のやり方で自己を表現してきたと言っても過言ではないでしょう。しかしながら、私自身の心を捉えて片時も放さないのはやはり「This Town」なのです。これ程にその振り付けが宇野昌磨その人の本質に入り込み、このスケーターの根源と、その芸術性と高度な技術を通じて観客に伝えるべきものとを巧みに表現しているプログラムはないと思えるからです。

 

ここで最初に引用した昌磨の言葉に戻りますが、これは紛れもなく「記録よりも心に残る」プログラムの1つです。実際、このプログラムの名前が競技の記録に残されることはありません。競技会では何ら得点を得ていないのですから。しかしある意味、このプログラムがもたらすものは如何なる高い得点をも凌駕すると言えるかもしれません。何故なら、単なる「得点」や「記録」が人々にどれ程強い感銘を与えようとも、又どれ程高く評価されようとも、芸術の栄光というものは、そうしたものの及ぶべくもない遥か高みにあるのですから。

 

これが私の目に映り、五感で感じ取り、心に刻み込まれた宇野昌磨の本質です。私が慕い、感嘆し、幾度も観ずにはいられない、私にとっての宇野昌磨。私の想いが常に帰り着くところにいる人なのです。

 

Over and over the only truth

 

Everything comes back to you」

 

何回も繰り返す、分かり切ったことだけを

 

何もかも帰り着く、最後は君のところへと)

 

「This Town」の宇野昌磨 Shoma Uno

 

日本語訳立案/翻訳/校閲Twitter上の宇野昌磨ファン有志一同
※ Mikhail Lopatin 氏の許可を得て翻訳しました。

 

註釈

(1)日本語の記事では普通「宇野選手」という風に現役の選手には「〜選手」と付けますが、この記事の場合は「宇野選手」という硬い表現がどうにも似合わないので敢えて付けませんでした。

(2)「This Town」の歌詞の日本語訳はインターネット上で複数見付けることができましたが、余所のサイト様から勝手に拝借すると法的に問題になるおそれがありますので、これも改めて翻訳しました。昌磨の動作に合わせて翻訳し、一応、脚韻も踏んであります(最後のリフレインは頭韻も脚韻も両方)。ただし、語呂を合わせるために原文にない言葉も少し加えていますのでご注意ください。

(3)ある読者様からの情報によりますと、原文には書かれていませんが、「This Town」は2017年の四大陸選手権冬季アジア大会でも演じられていたそうです。情報をご提供頂き有り難うございました。

 

翻訳担当者の後書き

Mikhail氏の英文は詩や音楽の専門用語が多く、普段それなりに英文を読み慣れている人間にとってもかなりハードルの高い内容でした。そのまま日本語にするのが困難でかなり意訳せざるを得なかった部分もあるものの、何人かの昌磨ファンが力を合わせて取り組んだ結果、どうにか日本語訳を完成させて公開にこぎ着けることができました。Mikhail氏とやりとりしたり、感想をリプしたり、「いいね」したりしてくださった皆様、そして仮訳の確認、ご意見ご感想、誤訳の発見、アイデアのご提供などで貢献してくださった皆様、本当に有り難うございました。日本の昌磨ファンの皆さんに少しでも楽しんで頂けたら嬉しいです。

 

事の始まり

今からひと月以上も前のことです。日本の宇野昌磨ファンのTwitter民の間にて、sports.ruというロシアのサイトの記事が大変な話題になりました。執筆者のMikhail Lopatin氏の記事は、ロシア語が読めない人間の目から見ても明らかに昌磨愛に満ち溢れており、日本の宇野昌磨ファン一同の喜び様ときたらそれはもう大変なものでした。何しろあのフィギュア大国ロシアの御方が日本の選手である昌磨君にぞっこん惚れ込んでいる様子なのですから、浮かれるなと言っても無理というものです。思えば、あのタラソワコーチやリプニツカヤさんのショーマチカ贔屓が判明した際も、日本の宇野昌磨ファンの間ではちょっとした祭りになりました。

そんなある日、宇野昌磨ファンXさん(仮名)がMikhail氏にコンタクトを試みました。日本の多くのフィギュアスケートファンが氏の記事に感心を持っていることを伝え、その作者を広く紹介しても良いかどうか尋ねるためです。
するとMikhail氏からご返信があり、多くの読者が見込めるのであれば自らご自分のロシア語の記事を英訳し、掲載してゆきたいとのことでした。そして実は既に英訳した記事があることを教えてくださったのです。それが「My Shoma Uno: The Epilogue」でした。

そこでXさんは、この記事ならびにMikhail氏のTwitter上のお名前とスクリーンネームをツイートし、日本のフィギュアスケートファン達にこのような英訳記事をもっと読みたいかどうか尋ねてみることにしました。すると日本人のファン達がこぞってMikhail氏の記事を拝読し、そのフィギュア愛の深さに感激しては、紹介用のツイートに次々と「いいね」をしたり、感謝のリプライを付けたりしました。そうした日本のファンからの反響を受けて氏は新たな英訳に取りかかり、ついに英訳記事の第2弾が公開されました(ページの下半分に英語版が掲載されております)。

さて、その英訳記事の第2弾が公開される以前のことです。「My Shoma Uno: The Epilogue」を、いっそ誰かが日本語に翻訳してどこかで公開したらどうだろう?という話が出始めました。というのも、Mikhail氏の英文は詩や音楽の専門用語が多くかなり難解な上、分量も多いため、読み始めたものの途中で挫折した方も多いのではないかと思われたからです。そこで、どうにか最後まで読み通した有志が集い、Mikhail氏から日本語訳の許可をいただいた上で翻訳作業を始めました。そうして先頃どうにか日本語訳を完了し、漸く公開の運びとなりました。Mikhail氏のフィギュア愛に溢れる記事をお楽しみいただければ、一同これに勝る喜びはございません。

なお、Mikhail氏はロシア語が読めないフィギュアスケートファンのために、今後もご自分の記事の英訳を試みて下さるそうです。私ども有志一同も、今後も(時間がかかるかもしれませんが)Mikhail氏の英訳記事はもちろん、他にも興味深い英語の記事がありましたら著者の許可を得た上で日本語に翻訳して掲載してゆきたいと考えております。

なお、私ども有志一同は、諸々の事情により各人のTwitter上の名前を明かさず、あくまで匿名で活動することにしました。そうした方が波風が立たないと判断したためです。仮に関係者に心当たりがあったとしても、どうか口外しないようにお願い致します。

悲しいことに、Twitter上のフィギュアスケートファンの間では、品性を疑うような卑しい縄張り争いが度々繰り返されてきました。そのような一部の礼儀知らずのファンに執拗に粘着され、フィギュアスケートそのものに嫌気がさしてしまう人もいます。願わくばこの場所は、そのような悲しい諍いとは無縁の場所にしたいものです。どうかご理解とご協力をお願い致します。